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  媛媛講故事―23

                                 
八仙人の伝節 Ⅲ 
                                   
                               漢鐘離と鉄拐李(李玄)              何媛媛


 八仙の二人目の人物は、前号で紹介した呂洞賓の先生としても知られている名高い漢鐘離を取り上げたいと思います。

  漢鐘離という名の漢は、彼が漢代の人物だったことに由来し、鐘離が苗字です。漢鐘離は陝西省の出身で実際の名前は鐘離権と言い、父、兄、彼いずれも漢王朝に仕える将軍でした。

  言い伝えでは、鐘離権が将に母親から生まれでるとき、高さ数丈の光が部屋に差し込んでき誕生したそうです。そしてその赤ちゃんは生まれたばかりというのに三歳ほどの子供のような大きな体でした。顔もつるりとして生まれたばかりの赤ちゃんのようではなく、産声も上げなかったといわれます。

 そして、生後幾日か経て突然口を開き「紫府で遊び、名は玉京で書く」(身游紫府、名書玉京)と言い周りの人々をびっくりさせました。「紫府」「玉京」とは、天帝が住んでいる宮殿のことで、自分は天帝の身辺にいる神の一人だということを暗に意味しているのでした。父親は、この子はただの人間ではないと信じ「権」という名前を付けました。

 鐘離権が成長すると、身の丈八尺、目光鋭く、髯も美しい、堂々たる体躯の男になり、漢王朝の将軍に選ばれました。

 或る時、漢は吐蕃の軍勢に攻められ、鐘離権は朝廷の命令で大軍を率いて吐蕃へ遠征しました。しかし鐘離権が功績を積むことを嫉んだ大臣の陰謀で、鐘離権には激しい戦いには耐えられない体が病弱か高年齢の兵士を組み合わせた2万の兵士が分け与えられました。しかしそのような大臣の陰謀は鐘離権の知るところではなく、戦いの序盤でこそ鐘離権の軍隊は勢いよく敵を攻撃しましたが、間もなく情勢は悪化し、兵士たちは討ち死にしたり、負傷したりして負け戦となり、鐘離権は只一騎で山の方へ逃げざるを得ませんでした。そして山で道を失い迷っていると、自らを東華先生と名乗る、身なりも相貌も奇妙なお坊さんが現れ、「将軍よ、わしはこの山に住んでいる。わしのところに来ないか?」と鐘離権に訊ねました。

 鐘離権はそのお坊さんが自分の身分を知っているのでびっくりして、「なんでこの深い山に住んでいるお坊さんが、私の名前や身分を知っているのか、きっとただものではない!」と思いました。そうして、疲れ果て飢え、しかも騙された悔しさいっぱいの鐘離権は東華先生の後をついて行きました。それ以降、鐘離権は先生から長生の秘訣、錬丹(辰砂を練って不老不死の薬を作る)の火加減、及び青龍剑法(青龍刀を使う技)など様々な神仙の方術を教わり、遂に名高い仙人になりました。

 中国に道教の一派である全真教は鐘離権に「正陽祖師」という尊称を与え尊拝しています。

実は漢鐘離のその姿は大変奇妙です。大きな体の上に赤ら顔を乗せ、上着の前をいつもはだけて、太っているお腹を剥きだしにし、頭には子供のような二つの髷を巻いて結び、いつも大きな団扇を持っています。

 さて鐘離権については一先ず置いて、八仙の中に片足が悪く、杖を手にしてぼろぼろの服を纏っている人物がいます。この人物こそ民間で有名な鉄拐李です。

 鉄拐李が実際はどんな名前だったか、非常に多くの名前があり特定するのは難しいのですが、中国30年代の大文豪・魯迅は「中国小説史略」の中で彼を李玄と呼んでいます。ここでは李玄と呼びましょう。

 伝説によると、李玄は体躯隆々とした大変に立派な青年で、学問を励み、出世を目標にしていました。しかし、その頃すでに科挙制度は腐敗しており、李玄が何回試験を受けても落第するばかりでした。李玄は結局出世の望みを捨て、道教の第一人者として名を馳せていた老子を師にして、華山(注)での修行に専念するようになりました。

ところで、李玄は八仙の肖像画では、足が不自由で杖を突き、ぼろぼろの衣装を纏った目を背けたくなる醜い姿で描かれます。どうして李玄はそんな姿に描かれるのでしょうか。

 或る時、師匠と行脚へ行く約束をし、自分の肉体から魂を乖離させ、師匠の許に行きました。出発前、李玄は弟子に「私のこの体をよく守っていてください。もし七日経っても私が帰って来なかったら、それに火を付けて焼いてください」と頼みました。

  ところが、六日目に、弟子の許に母親が病気で危篤だという知らせが届きました。弟子はあれこれと悩んだ末に李玄の体を焼いて、急いで里帰りしました。七日目に李玄の魂が戻ってみると、身体はどこにも見付からず、弟子の行方も分かりません。魂はふわふわと漂い気持ちが落ち着きません。

 焦ってあたりを見回しますと木の下に死体が一体あるのが目に入りました。李玄は「自分のものが見付かるまでとりあえずこの体を借りよう!」と心を決め、この死体に滑り込みました。しかし、人の死体を借りて蘇った李玄が立ち上がって見ますと、なんとぼろぼろの衣服を着、片足も可笑しいことに気付き驚き慌てました。実は李玄が借りた体は餓死した乞食のものだったのです。李玄は慌ててその醜い体から抜け出ようとしたところ、「真の道は表面を取り繕うことではない、功徳を十分に積めば、姿は醜くとも真の仙人になれる」という師匠の声が聞こえ、振りかえってみますと、手に鉄の杖を持った師匠が立っていました。師匠の言葉の意味を悟った李玄は師匠から鉄の杖をもらい、その姿のままで修業を続けることにしました。

 李玄は鉄の杖のほかに、霊薬が入っている瓢簞を背負っており、病気に罹った人々に薬を分け与えてくれたそうです。

 かつて中国では貼り膏薬を「狗皮膏薬」と呼んでいました。以下はその謂れです。

 昔、河南省の安陽のあるところに膏薬を作る心の優しい王さんがいました。或る日、王さんは町に出掛けると、足が不自由で、体から耐え難いような臭いを発する乞食に出会いました。乞食は王さんの前に来ると、足を伸ばして「わしの足を治してくれないか。」と言いました。「よろしい。治して上げましょう」と、王さんは全く嫌な表情もせず膏薬を取り出し「この膏薬を使ったら明日は必ずなおるよ」と乞食に言いました。

 しかし、翌日、町でまた乞食に出会い、「足は好くなったかね」と訊ねると「いや、好くなるどころか、もっと悪くなったよ」と乞食は答えました。王さんは大変恐縮して、「もっとよく効くものと換えましょう。明日はきっと良くなるよ」と膏薬を取り換えて帰りました。しかし、翌朝、玄関を開いてみると乞食が門のところに座っており、王さんの顔を見るや罵り始めました。

 「偽の薬で人を騙す、心のない薬屋じゃないか!」。王さんは乞食の傷を見ると、不思議なことに傷は前より大きくなっていました。このようなことは今までにはなかったことでした。王さんは恥ずかしく思い「もう一回良いものを張り直すからどうぞ家に入ってください」と言いました。すると何処からともなく一匹の大きな犬が乞食に飛びかかって来て、乞食の足を噛んでしまいました。王さんが急いで乞食の杖を取り上げ渾身の力を込めて犬に振り下ろすと、犬はただちに倒れて死んでしまいました。

 王さんが途方にくれていますと、乞食は「早く良い薬をもって来い」と王さんに催促するのです。王さんは乞食の声に慌てて家に入り、薬を調合して乞食のそばに戻ってみると打ち殺された筈の犬の姿は何処にも見当たらず、犬の皮の切れ端だけが何枚か残っていました。王さんはびっくりして立ち竦んでいると、乞食は自ら王さんが持ってきた薬を傷につけるとその上を犬の皮で被いました。何をしているのかと王さんが訊いてみようとすると、乞食は薬のついた犬の皮を外しました。と、不思議なことに足の傷はすっかり治っているではありませんか。王さんはまたまた吃驚仰天して、薬 のついた犬の皮を手に取ると呆然と見入るばかりでした。しばらくしてやっと我に返りましたが乞食の姿はもうはるか遠い彼方に小さくなっていてどうにかやっと瓢簞を背負った後ろ姿でそれと知るばかりでした。

 そしてその後姿を見ているうちに、王さんは棒で頭を叩かれたかのような強い感動が頭を走り突如、悟ったのでした。
 「きっと、あの有名な李玄先生が良い薬の作り方を教えに来てくださったのだ!」

 王さんは李玄先生に見習って狗の皮に薬をおいた膏薬を患者に使って見ますと王さんの薬の効果がいっそう高まる事が分かりました。そして王さんの膏薬は、李玄先生の発明だという話が広まって評判になって行ったということです。(続く)

注:崋山(Huà Shân)は、中国陝西省花陰市にある険しい山。  道教の修道院があり、中国五名山の一つで、西岳と称  する。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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